(一五)「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」 ほぼ二か月前に「はじめに」の改稿を終えて、それでもまだまだ自分のいい損なったこと・いい足りないこと・いいえなかったことの多さを感じています。もしかしたら、この先も私は延々改稿しつづけていくことになるのじゃないかという予感があります。しかし、私がいまそのように感じていることはむしろよいことかもしれません。 ここしばらくでも、ある出版社の営業が、すでにとてもよく売れているある本(大手企業の経営者の著作)への広告に使いたいということで、いろんな書店員からのコメントを集めている、ついては私にも参加してほしいといってきました。私がその本を読んでいないというと、いまここに用意しているので、差し上げる、とのこと。私は断わりました。そんなものは読みたくもない、また、そんなものをすでに大勢のひとが読んでいることにあきれてもいましたが、たくさんの書店員たちがこの企画にやすやすと参加することになるのだろうと考えて暗澹としました。 また、ある取次の発行している書店向け雑誌の編集者が、「書店員による手書きPOP」に関しての特集を組みたい、ついては『白い犬とワルツを』の仕掛けを行なった私に取材したい、といってきました。私は、すでに自分の勤める書店でPOPを書いていないこと、それゆえ ── 私の考えかたは一貫してはいるけれども ── 現在私の勤めている店の看板で数年前のような発言のできないことを話し、断わろうとしたんですが、いくらか粘られもして、それではということで、「はじめに」の原稿を送りました。ちょっと笑ってしまいますが、あの原稿は文庫本のページ数に換算すると一〇〇ページ以上あるんですよね。それをいきなり読まされるというのは、やはり大変だろうなと思いはするんです。とにかく、それを読んでもらったうえで、なお依頼があったので、私は自分の勤める書店の名前を一切出さないという条件で、この仕事を引き受けることにしたんです。 そこで、あらためて、「はじめに」での私の主張をかいつまんでいってみようと思います。 私はいまの大多数の読者の読みかたを批判しました。その読みかたに迎合・追随する書店員を批判しました。で、もしかすると、その読みかたをつくりあげているのが他ならぬ書店員なのではないかという疑惑を抱いているといいました。これは作家(ひいては出版社や取次)にもいえることで、いまの大多数の読者に迎合・追随している作品 ── 実は「作品」などとはとてもいえないもの ── を書いている(発行している・流通させている)だろうという批判をしました。その批判の支柱となるのが、「作品は読者のためにあるのではない。作家のためにあるのでもない」ということでした。「作品というのは自立したものであって、それを読んだときの感動というものは、読者が作品の位置にまで上がっていってこそはじめて得られるもので、作品を読者の位置にまで引き下ろしたときに得られるのではない」ということです。そのために「背伸び」をした読書が必要だということをいったわけです。 そこで、その「ある取次の製作している書店向け雑誌」で ── 書店員が読むことになる ── ということは、結局書店員に向けて、ということになります ── 私になにかいいうることがあるとしたら、提言としてこうなります。全文(結局私の「寄稿」という形になりました)を引用します。
ここでもう一度、トーマス・マンからの引用。
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